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2014年07月16日 06:00 学び~社会
光秀はなぜ?
本能寺の変、原因は・・・ 中日新聞
本能寺の変だって。
ホップ歴史でとりあげた、織田信長がころされてしまった、あの事件だ。
国語社会コースをとっているRAKUTOっ子には、大河ドラマを見ている子も多いけど、先週がまさに「本能寺の変」だった。
ドラマで見ると、迫力あるよね。
さて。
子どものころは、「うつけもの」とよばれ、みんなにばかにされていた信長。
桶狭間(おけはざま)の戦いで、天敵今川義元(いまがわよしもと)をうちやぶると、天下統一にむけて一直線。
甲斐(かい)の武田もほろぼして、お次は中国の毛利(もうり)を攻める。
もうすぐ天下は信長のものに・・・とみんなが思っていたその矢先。
とんでもない事件がおこってしまった。
そう、本能寺の変だ。
中国攻めに向かうために、少しの家来をつれて、本能寺で一休みしていた信長。
それをおそったのは、信長の部下、明智光秀(あけちみつひで)だ。
光秀におそわれた信長は、無念の死をとげる。
なんで、光秀が信長をうらぎったのか?
個人的なうらみによるもの。
光秀が天下をとりたくてしょうがなかった。
信長と仲がわるかった足利将軍(あしかがしょうぐん)が命令した。
その理由は、いろいろと考えられるけど、どれが本当なのかは、今でもはっきりとわかっていない。
今回のニュースによると、ある手紙がみつかって、そこから光秀が裏切った理由がわかってきたらしいよ。
信長が、天下統一を目指していたころ。
四国を支配していたのは、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)。
元親は、もともと土佐(とさ)のお殿様。
信長とも仲がよく、信長は元親に「四国はぜんぶ自分のものにしていいよ。」と言っていた。
元親は、とても強い。
あっという間に、土佐を飛び出して、となりの国々を攻めほろぼす。
ところが。
この元親の強さといきおいを見た信長は、ちょっとびびった。
そこで、信長は、四国に対する政策を変更。
「元親くんには、土佐と阿波(あわ)の南半分だけあげるから。あとは、俺のものね。」
これを聞いた元親は、激怒(げきど)。
信長と、けんかになった。
とはいえ・・・
元親としては、天下統一目前の信長に、いつまでも逆らうことはできない。
元親のおよめさんは、明智光秀の家来である、斎藤利光(さいとうとしみつ)の親戚(しんせき)だ。
そこで、光秀にお願いして、信長との仲をとりもってもらおうとした。
光秀は、がんばって信長を説得(せっとく)しようとした。
「元親は、阿波のお城から撤退(てったい)し、家来になるといってます。ゆるしてあげてくただい。」
ところが、信長は、ゆるさない。
元親をやっつけるための、長曾我部討伐軍(とうばつぐん)を立ち上げた。
そして、1582年6月2日、四国に向けて、出陣する・・・はずだった。
しかし、この6月2日、実際に攻められたのは、織田信長だった。
攻めてきたのは、明智光秀軍。
信長と元親の間をとりもとうと、がんばってきた光秀だ。
2人の間に挟まれて、どうにも動きようがなくなり、信長を攻めることにしたらしい。
今回見つかった手紙は、元親が信長にゆるしてもらおうとしていたころに、元親が斎藤利光に出した手紙だ。
そこには、阿波のお城から軍を引きあげたことや、信長の指示にしたがいたいという、元親の思いがつづられている。
いままでわからなかった、元親と光秀のやりとりが、この手紙ではっきりした。
これにより、明智光秀が信長を裏切ったのは、四国攻めに原因がある可能性が高まったんだって。
こんな昔の手紙が、今になって見つかって、しかも大事件の秘密を解き明かすカギになる。
歴史って、おもしろいね。
写真は、長曾我部元親。ウィキペディアより。
信長の死後、四国を平定するも、豊臣秀吉にやぶれて、さいごは土佐一国のお殿様に逆戻りした。

本能寺の変だって。
ホップ歴史でとりあげた、織田信長がころされてしまった、あの事件だ。
国語社会コースをとっているRAKUTOっ子には、大河ドラマを見ている子も多いけど、先週がまさに「本能寺の変」だった。
ドラマで見ると、迫力あるよね。
さて。
子どものころは、「うつけもの」とよばれ、みんなにばかにされていた信長。
桶狭間(おけはざま)の戦いで、天敵今川義元(いまがわよしもと)をうちやぶると、天下統一にむけて一直線。
甲斐(かい)の武田もほろぼして、お次は中国の毛利(もうり)を攻める。
もうすぐ天下は信長のものに・・・とみんなが思っていたその矢先。
とんでもない事件がおこってしまった。
そう、本能寺の変だ。
中国攻めに向かうために、少しの家来をつれて、本能寺で一休みしていた信長。
それをおそったのは、信長の部下、明智光秀(あけちみつひで)だ。
光秀におそわれた信長は、無念の死をとげる。
なんで、光秀が信長をうらぎったのか?
個人的なうらみによるもの。
光秀が天下をとりたくてしょうがなかった。
信長と仲がわるかった足利将軍(あしかがしょうぐん)が命令した。
その理由は、いろいろと考えられるけど、どれが本当なのかは、今でもはっきりとわかっていない。
今回のニュースによると、ある手紙がみつかって、そこから光秀が裏切った理由がわかってきたらしいよ。
信長が、天下統一を目指していたころ。
四国を支配していたのは、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)。
元親は、もともと土佐(とさ)のお殿様。
信長とも仲がよく、信長は元親に「四国はぜんぶ自分のものにしていいよ。」と言っていた。
元親は、とても強い。
あっという間に、土佐を飛び出して、となりの国々を攻めほろぼす。
ところが。
この元親の強さといきおいを見た信長は、ちょっとびびった。
そこで、信長は、四国に対する政策を変更。
「元親くんには、土佐と阿波(あわ)の南半分だけあげるから。あとは、俺のものね。」
これを聞いた元親は、激怒(げきど)。
信長と、けんかになった。
とはいえ・・・
元親としては、天下統一目前の信長に、いつまでも逆らうことはできない。
元親のおよめさんは、明智光秀の家来である、斎藤利光(さいとうとしみつ)の親戚(しんせき)だ。
そこで、光秀にお願いして、信長との仲をとりもってもらおうとした。
光秀は、がんばって信長を説得(せっとく)しようとした。
「元親は、阿波のお城から撤退(てったい)し、家来になるといってます。ゆるしてあげてくただい。」
ところが、信長は、ゆるさない。
元親をやっつけるための、長曾我部討伐軍(とうばつぐん)を立ち上げた。
そして、1582年6月2日、四国に向けて、出陣する・・・はずだった。
しかし、この6月2日、実際に攻められたのは、織田信長だった。
攻めてきたのは、明智光秀軍。
信長と元親の間をとりもとうと、がんばってきた光秀だ。
2人の間に挟まれて、どうにも動きようがなくなり、信長を攻めることにしたらしい。
今回見つかった手紙は、元親が信長にゆるしてもらおうとしていたころに、元親が斎藤利光に出した手紙だ。
そこには、阿波のお城から軍を引きあげたことや、信長の指示にしたがいたいという、元親の思いがつづられている。
いままでわからなかった、元親と光秀のやりとりが、この手紙ではっきりした。
これにより、明智光秀が信長を裏切ったのは、四国攻めに原因がある可能性が高まったんだって。
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Posted by RAKUTO豊田校
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